昭和四十八年十一月十二日 朝の御理解

御理解第四節 「此方金光大神あって、天地金乃神のおかげを受けられるようになった。此方金光大神あって、神は世に出たのである。神からも、氏子からも両方の恩人は、此方金光大神である。金光大神の言うことにそむかぬよう、よく守って信心せよ。まさかの折りには、天地金乃神と言うにおよばぬ。金光大神、助けてくれと言えば、おかげを授けてやる。」


 昨日椛目の内田さんところの二番目の嫁さんである孝子さんが嫁入りました。結婚式でした。で、兄弟達皆集まって、広島の方からも耕【】さん達が親子五人、奥さんのお母さんも一緒でしたから、正式にでたわけでございます。
 それで式を終えてから、私は裏へ退っておりました。下っておりましたから、裏に御礼に出てまいりました。もう暫く言葉が出らんのです。もう、それこそ感涙に噎んで、妹達が一人一人、幸せになっ行く。
 弟がおかげを頂いて、夫婦仲むつまじゅう、子供のおかげまで頂いて、本当に親先生、どこからどう御礼を申し上げてよいかわからん。本当に金光様有難うごさいますという前に、親先生有難とうございますと、心の中に御礼を申さしてもらいよりましたら、もう感激いっぱいで今日の式を頂いて、只今終わらせて頂いてから、今日の夕方の汽車で広島へ帰りますから、実は御礼を一言申し上げたいと思うて参拝させて頂いたというて、お参りをしてきました。
 本当に考えてみれば、考える程本当におかげじゃんねと言うて、私もしみじみお話しさせて頂いた事ですけれども、御承知の通り椛目に御兄弟が三人おられます。
 兄さん、それに弟さん、それはもう根っからの椛目の方達ですから、もう椛目でも指折りの分限者ばかりです。三軒共。
 それに内田さんは、終戦後引き上げて帰ってまいりまして、お父さんの病気をしておられてそれから亡くなられて【  】女手一つで、あれだけの沢山の子供さん達をまあそれ々におかげを頂いて、しかも適齢期になって行った息子、娘達が、一人一人おかげを頂いて、丁度去年、一去年から三つ続けて御祝儀をしておられる。
 別に決まった仕事があるわけでなし、それこそ、あちらの御親戚の方達の言葉を借りると、もうあそこの事を、朝鮮、朝鮮と言われるわけです。
 もう朝鮮の奴どんばっかりは、もう、金光さん、金光さんちゅうちから、金光さんに参っとってすむごたんならば、と言うて、もう本当にいうなら、悪口雑言を私自身が聞いた事があります。
 ならその方達、なら宮崎友足さんこそああやって信心されますけれども、他の兄さん達は御信心があるといえばある、無いと言えば無いといえるですから、まああれだけの大きな百姓と商売まで皆さんなさっておられますから、やはり、あちらは何もしてないから、それこそ手伝いにでも来てもらいたいわけなんです。
 特に宮崎さん、弟さんになりますかね、増太郎さんなんかは、吉井の方へ自動車の切符のあれをなさっておられますから、内田さんがあそこに手伝いに行かれたら、いわゆるかっこうの仕事が立行くわけなんです。
 けど内田さんとしては、あそこに毎日行きよったんでは、神様の御用が出来ん。
 信心が出来ん。だからまあ断りにくいところを断る。で、お百姓しておられますから、いろんな忙しい時がありますから、だからもう、神様の事と重なる場合は、もう絶対兄弟達には悪いけれども、神様の方を先に取ってござる。
 もう、いうならば、信心一途でおかげを頂いて、只、その信心もです、例えていうならば、昨日、特別奉習員の御理解でしたけれども、本当にその御理解を頂いて私は改めてまた、生神金光大神という事の意味をわざわざ頂いた気がしたんですけれども      ※      ※      ※      ※      ※ 昨日、ここの合楽の久保山さん、それから田中さんと二人の例話をとっての、生神とはこういう生き方から、生神が生まれるんだという御理解を頂きました。
 生神とは私は、和賀心にだけと思うとったところが、生神とはここに神が生まれるという事であったと、ここに生まれるのである。
 勿論、自分の心の中に有難い、勿体ないという我と我が心が拝みたい程しの心を、生神というのでしょうけれども、それは往々にしてです、只自分よがりの生神であるような場合が多いのです。
 有難い有難と言っておるけれども、その有難いという、生神が誕生する程しのおかげを頂いたり、生神の働きがここにあらなければならない。
 有難いと言いよっても、生神の働きを得ていないなら、生神ではない。それは自分よがりな生神という事になる。そこで勿論自分の心の中で有難いというものが、ここに生神の働きを現す程しのおかげを受けた時に、ここに生神が生まれるという事になるのです。そういう信心には例えて申しますならです、田中さんが取り入れ、だから四、五日御無礼させて頂いた。本当に日頃の教えを頂いて、お参りが出来なければ出来ないで、かえってお参りが出来んから、金光大神、親先生、その事に取り組ませて頂いて、日々御用さして頂いとりますから、本当に有難い御無礼をしとりますけど有難い。けれどもやはりいっぺん、やっぱりお参りせねばおられん気持ちで昨日、一昨日でしたか、朝の御祈念に参って見えた。そして御祈念を頂いてから、又つらつら感ずる事、それは成程これは取り上げだからというて、四、五日も御無礼するといったような、やっぱり朝参りはさせてもらわなければいけないんだとわかった。
 もう、いうならば、取り上げの中にです、いうならば、取り上げの中にというよりも、生神金光大神の信奉者としての信心の中に、お百姓があるのであるという事になってきた。というて、取り上げが忙しゅうございますから、暫く御無沙汰致しますというても、それは誰でも、そげな事じゃつまらぬ、そげな信心じゃいかんよと、誰も言わんけれどもです、これは自分自身のものなのですから。
 指【】の久保山さんもそれを言うとられます。合楽の方、御信心させて頂くようになって親先生私は、以前はもうきっちり金銭出納帳をつけておりました。
 ところが信心させて頂くようになって、それを止めました。というのは相当の月々のお供えがある。それを一々家計簿につけよったんじゃ、信心のない例えば、主人が見たりしたら、信心が出来んような感じがする。そこで家計簿はつけんなりに、それこそ、神ながらな生き方をさして頂いておりますが、これは私の不精からじゃないと思いますけれども、これではいけないでしょうか、つけたがよいでしょうか、つけないがよいでしょうかというお伺いがあった。
 それで私は玉水の湯川先生の話をさせて頂いた。毎月々お商売をさせて頂いて、月末に支払いが出来ずに難儀をしておる信者が参って来た。そこで、これから私の言う通りにせよと。毎日一生懸命参って来いよと。今日からはね、売り上げをつっがっ金庫の中に入れなさい。そして月末になってからいよいよ、月末の支払いという日に開いて見よと。
 まあ信者はそれを実行した、ああおかげ頂いた、広大なおかげ頂いたというて喜こんだ。まあその次の月もおかげ頂いた。段々金庫の中へお金を入れるばっかり、丁度もう二十五日になったから、あともう五日間、今月はどの位だん成績が上がっているだろうか。今月も又、支払の出来るようなおかげを頂いとるじゃろうかと思うて調べた。いよいよ月末になって開けて見たところが、どっこい支払うだけの金が足りない そこで先生今月は、先月はあんなに見事におかげを頂いたけれども、今月は支払が足りません。ところが湯川先生がおっしゃったそうです。
 お前が途中で金の計算ばしたろうとおっしゃった。実は二十五日に、ころころだからおかげ頂かんととおっしゃった。それはどういう事かというとですね、もう大変な深い意味がありましょ。それは神様の働きの場というものを狭めてしまうのです。そうい生き方は。なぜって人間心が働くからです。
 ああまだ五日間ある、五日の中にまあ、あと幾ら、幾らおかげ頂かにゃこれは支払が困るが、これはちとがんばらにゃという、人間心を使うという、人間心を使うという事はですね、おかげにそのように響くものなんです。
 だからというて皆さんに金銭出納簿をつけなさんなという意味じゃないですよ。問題はね、神様に委ね任せるというまあ、いうならば、離れ業のようてすけれども、生神金光大神の働きをです、そこに現す事の出来れる。神の働きの場というものを充分にです、そこんところを教祖様は、ままよという気になれ、ままよとは死んでもままよという事です。
 そこには徳が受けられるという事は、生神金光大神の働きの場というものが出来るんです。何十年信心しよっても、そこんにきをです、しだごたの生き方であっては、只、おかげを受けても、ここに生神金光大神を生みなすという働きになっ来ない。
 昨日合楽の方達二人、久保山さん、田中さんのここに生神が生まれる為の信心の稽古というのはです、と言うて、なら、一年なら一年締めくくってみて、久保山さんが言われるようにです、というてつがめか毎日合うて行きよるという事実があるという事を言うておられます。だかもし、つがめか合わなくなってもですよ、つがめか合わなくなっても、これはまだどこにか自分の信心に粗【】があるんだと、それをつかめか合うようになるところまで、信心をもっと々進めて行く以外には無いです。
 金光大神をここに現すという事は、それには取り上げじゃけん御無礼しますといったようなです、生き方では生神としての働きをここに現す事は出来ません。
 おかげは頂けてもそれは神様を信じきっておりますから、それが出来るというのですから、なら、久保山さん場合がそうです、すとなら、田中さんの場合はです、それほどまでに金光大神に憧念心を燃やしておるというのですから、神様の例えば取り上げの最中であろうがです、信心の中に取り上げがある体験を頂かせて頂く、いうならば、本当の信心生活とは、忙しかけん参らん、忙しなかけん参るという事には、それはおかげは受けられても金光大神を生みなして行くような働きにはならないんだと。 その点、内田さんの場合なんかは、もういうならば、いつも離れ業的なです、日々がいうならば、その日暮らし。合楽と同じこと。それをよう神様がこうやって日々がです、なら内田さんの場合、明日はどうしょうかという場合、ちゃんと神様が都度々にお繰り合わせを下さってお供えのお初穂も準備して下さって、食べる事着る事一切それなりの事ではあるけれどもです、おかげを頂いていよいよ娘を嫁にやらにゃんならん、又息子が嫁ば迎えんならんという時には、それなりに例えば昨日、娘をやるのにそれこそ何と言いますか、道具は勿論の事ですけれども、ミシン、テレビのごたるものまで揃えて持たせてやる事が出来たという事は、一通りの事をちゃんと、そして親先生有難い事はね、その弟の嫁が、又姉達の連れ合いがもう本当に勿体ない程の素晴らしいおかげを頂いとる。
 昨日男泣きに泣いてその事をお届けしました。だから生神が此処に生まれるという事、それは耕ちゃんの言葉を借りますと、親先生が此処に生まれるという事。
 親先生、即生神金光大神としての頂き方なんです。
 只、ね、お願いをしておかげを頂くというのではなくしてです、お願いをしてそういう信心にならせて頂こうという事が、そこに生神を現す、もう本当に生神様じゃなあといったような、働きを現す事が出来るのです。
 私は今朝方からお夢を頂いた。それが私がかって見た事のない程しのお芝居のそのアルバム風に出来とるのです。もうその一枚一枚にその見事な、そして一番最後のところを見たところが、私の写真の大写しが一番最後にあるのです。
 あらこれは合楽のここ二十年間の信心のアルバムたいと言いよるところで目が覚めた。ところで目が覚めた、いうならば合楽が二十年間歩いて来たその名場面集なのです。お芝居には名場面というのがあるでしょう。そこんところを写真にとってある。 もう本当に名場面集なのです。例えていうなら、内田さんのところでいうならばです、日頃は例えば他の兄弟達のようにです、貯った金もなければ立派な家に住んであるわけでもない。
 只一途に神様、神様、親先生一本槍でおかげを頂いてきておるけれどもです、さあいよいよお話を頂いて、そこに何か問題があるとか、又そこに結婚式なら結婚式というような事になってくる時になると、もうどこから寄ってくるかわからんけれども、一切が調うのくる。そういう一つの場面をですね、写真にども撮っておくならそうい事になってくるのではないでしょうか。
 本当に合楽のここ二十年間の歩みというものを、その場面、場面というものを、いわば写真に撮っておったら私が今朝方から夢で頂きますように、もうそれこそ今までかって見た事のない程しの、これは他所で聞いた事のないほどしの素晴らしいおかげの展開とでも申しましょうか、そこに生神金光大神の働きをそこに見るような場面というものが、全部アルバムに治めてある。
 他所のごとのことして見よったら、あらこれは合楽のこの二十年間の歴史である、又名場面集であるという事であった。
 だからそいう名場面集というものをです、お互いの家族の上にもです、私は、いつも善導寺の原さんにも申します事ですけれども、貴方がおかげを受けたところは本当になにかにちゃんと控えときなさいよち。
 もう本当に話のようにおかげを聞いていてきとられるのだから、それを証拠にとっておきなさいよと、私がいつも原さんに申します。
 いわゆる名場面集をアルバムに納めておきなさいよという意味なんですよね。その私のお夢からいうと、これはもう毎晩の事でございますけども、夜、寝ませて頂くときに、必ず床の中で御祈念をさしてもらう。そして心の中に有難いなあというものを頂けて寝まなければ明日が迎えられないような気がする。
 心にひっかかる事がある。心配がある。心の中に何かいらいらした事が心の中にあると、明日を迎える事が私は出来ない気がするから、それはもう夜中にでも出てきて御祈念をさしてもろうて、自分の心というものの状態を正してからしか寝みません。 昨夜もそんな御礼を申さして頂いて、丁度昨日は十時から新国劇の白野辯十郎ですか、私はあの芝居ははじめて見たんですけれども、それこそ素晴らしいお芝居でした 島田正吾の当たり役というんだそうですかね。師匠であるところの「沢正」の演出をそのままに今の舞台。島田正吾の傑作中の傑作だと言われておりますお芝居だそうで、私はそれをはじめて見ました。
 それで非常に感動した。その演技といい、その筋の運び方といい、その演出の具合というものを非常に私は素晴らしいなあと私は感動して、そしてテレビを切って有難いというお礼を申さして寝まして頂いて、寝ませて頂こうと致しましたら、神様からのお知らせを頂いた。
 もう、それこそ黄菊白菊のね、生け花、お花屋さんにまいりますと、あれは咲きすぎらんように、薄い紙でみな菊を包んでなるでしょう、花のところを。それを頂くんです。もう私は、又感動しました。菊の花といえば、合楽の信心、合楽的信心の喜びというふうに頂いとりますが、私の心の喜びというのが、今菊の花が全開になろうとする程しの働き、けどこれが全開になったんではできんから、いわゆる神様が紙に包んでござる。そして又昨日の三時半のここへ出仕さして頂く時にです、私がその時に紙をお取らして頂くと、その時に丁度又今日一日を信心の喜びの花、開花のままおかげ頂く事ができるという事だと思うです。
 ははあ私は、日々こういうおかげを頂いとるから有難いんだという事を、昨夜わからせてもらいました。皆さん本当に一日を締めくくってしまうとき、決して神様に喜んで頂くような事ばかりの一日でない事が多いです。
 けれども御礼を申し上げるところは御礼申し上げ、お詫びとするところは御詫びをさして頂いて、それこそ神様との交流を有難いというもので結んで、私は寝ませて頂くような、日々の精進が必要だと思いますね。
 今日はもう、もやもやしたところのようなことで、結んだって駄目です。今日はもう腹の立ってたまらなかったというようなことでそのままではいかんです。
 それを整理整頓さして頂いてです、有難いと言えるような心を持って、日々を締めくくって行かなければいけんです。その途中はです、それこそ、朝の清々しさ、昼の忙しさ、夜の有難さという生き方。昼の忙しさの中にはいわば、忙しさにかまけて、お粗末御無礼のところも沢山ありましょう。けどそこんところを詫びたり御礼申し上げたりして、締めくくっていかなければいけないという事なんです。
 そういうおかげを頂いておるからです、勿論これは私は、自分の心のこれが生神かと自分の心を拝みたいような心と同時に、此処に神を生みなして行く事が出来る、神を生みなすという事は、自分に周辺に幾つも沢山生神を現して行く事なんです。
      ※      ※      ※      ※      ※ 昨日永瀬さんところの柿狩りで御招待頂いとりましたから参りました。高橋さん送って下さると言うことだったけれども、いつまで待っても見えん。早う行かにゃ向こうが待っとんなさろうと思うけれども見えない。けども神様の御都合だと思うて準備だけしとこうかと、準備しよるところへ高橋さんが見えたというてきた。
 そして用意して車に乗せて頂く、それで玄関に車がつけてありましたので出ろうとしょったところが、杉山が来とりますよと高橋さんがいわれる三男さんが見えておった。何か機械の暖房の何かで来たばっかりのところだったらしい。そしてその機械の倉庫の中にですか、あそこのところに入って何かしかかっているところへ、高橋さんが、杉山、杉山と呼ぶので、中から出て来た。それで私がそげなとは後から帰って来てからでよかけんで、この車に乗んなさんというて、そうですかというて、仕事着なりに車に乗って来た。
 三男さん今日はあんた、繁雄さんの代用品ばいと言うた。だから早速自分が水筒を持って、丁度昨日一日、私が便所に行けば便所についてくるしね、それこそ、繁雄さんの代用品が出来られた。
 もう、それこそ間髪を入れず、昨日は繁雄さんにお出頂きたかったけれども、丁度取り上げでそれが出来なかった。
 例えばあんた代用品であっても、繁雄さんの代用品をね、そこに見る事が出来る。 丁度自動車の中でその生神を生みなすという働きの事を頂いとりましたでしょう、ですからこれが生神を生みなして行くのだと、車の中で頂いた。もう間髪いれない事 なら高橋さんがもちっと早う来とられたら、もう例え代用品でも連れて行く事は出来なかった。
 例えそういう意味の事を申しますなら、私の周囲、周辺、日々の事にどの位生神金光大神が現れてござるかわからんでしょう。
 それこそ一日の内にだって、やはり名場面というものを、写真も記録にとっておきたい程の事が日々の事でしょうが。生神というのは日々の仕事の場にです、家庭の中に、そこに、ここに神が生まれるという事であってというのが生神。
 そういう私共はですね、信心を頂かしてもらう。金光大神のいう事に背かぬようにという事はです、只おかげを頂く為の信心ではなくて、金光大神をそこに生みなす。 例えていうなら、まさかの折りに、天地金乃神というに及ばん。金光大神と言えば助けてやる。もう金光様というたらもう、ここに即神が誕生される程しのおかげを下さるというのですから、金光大神はそういう生神の道をです、ひたすら歩かれて、その事を金光大神が教えて下さるのでございますから、金光大神の言う事に背かぬように、よく守って信心せよというところが出来なければいけません。
 金光大神の言う事には背いておる。いわゆる守っていない。それでは金光様ではそこに、そこに神様を生みなすような事は出来ません。
 そこで例えば昨日、車の中で申しましたように田中さんの例を申しました。又は内田さんの例を申しました。又久保山さんの例を申しました。
 そういう例えば三人の方達の信心ぶりというものをです、完璧という事じゃない、素晴らしいと言うことじゃありません。けどそこに神がいよいよの時には神が生まれなさる程の信心を日頃しておるという事なんです。
 私は合楽の信心の稽古というもの、夕べも御祈念の後に皆さんにその事を聞いて頂いたんですけれども、合楽での魅力はここだと私は思うんです。
 又ここは教えて下さる事だと思うんです。いや、教えて下さるのじゃない。先生自身が実際それを表してそして教えておられるという事が、ですからね、おかげを頂かねばいけません。
 それには私共は日々です、完璧な生き方は出来ません。それこそお粗末御無礼だらけですけれども、そこのところは日々お礼をさして頂いたり、お詫びをさして頂いたり、私が昨夜から頂いておる、喜びを持ち続けさして頂いとるようにです、神様が寝んでおる間でも喜びを包んでおいて下さる。そして朝目覚ます同時にその紙を取って下さるところにもう、朝目覚めたところからです、いうならば、有難いという心で神様に向かう事が出来る。
 そういう生き方からです、例えば潔い信心が出来る。そういう信心から思い切った信心が出来る。そういう信心からですいうなら、離れ技的ないわば信心が出来る。
 金光大神の教えて下さる事を、只、常識的な面だけで頂いておるという今の金光教には、そういう信心がもうほとんどというてよい位です、道徳的であるとか、常識的であるとか、人に【  】を積ませないという程度のところまでの信心、それこそ教祖の歩かれた道の中にもありますようにです、戻しの風は十層倍というような信心が最近非常に影を、が薄うなんで来た。
 だからそういう信心は場合に依ってはです、余りもの信心、金光様の信心はそげなことじゃけん、私だん出来んもんと信心のなかものはいう場合もあるです。
 なら今の久保山さんの場合だって、田中さんの場合だって、内田さんの場合だってそうでしょう。親戚の者すらが、そげな金光様、金光様てんなんてんもよかばって、いよいよ泣きついて来たっちゃ知らんぞと、いわば悪口雑言のところを通っても、やはり神様の方を立てぬいておられるという、内田さんの生き方です。それこそ親戚の人達でもです、本当にやっぱり、朝鮮が信心しよるけんおかげを頂くとやっぱり言うておられるそうです。
 それには田中さんのここ一両日感じておられるような、そういう信心をです、忙しいけん参られんという信心からは生まれて来ないという事です。
 生神の誕生というような事は、だから結局は信心は、おかげを頂くけん参りよるとでなくてです、参らなければおられんけん参りよるという信心にならなければいけないという事なのです。
 そこに次の久保山さんのです、例えば御主人が郵便局に勤めておられます。大変な高給取りという事でもありません。中にあれだけの毎日の例えばお初穂ならお初穂をなさっておられる。成程信心のない主人が見たらです、お前そげな事しよるなら家は潰れてしまうぞと、本当、御主人がおっしゃるじゃろうと思います。だから信心の無い者にはわからんものの世界です。
 生神を生みなして行くという事は、そこに例えば、玉水の信者さんの話を致しましたようにです、そこにそれこそ、霊妙不可思議な、生神金光大神の働きというものがあるわけなんです。してみると、例えば一年間なら一年間、久保山さん場合お参りをしない、月に何万という金をいわば余分にたまっていくかというと、いっちょん貯まってはいないというて、信心さして頂くようになって、それだけの事が足らん事になっとろうかといえば、一つも足らん事はない。
 してみると、お参りのしもうけであり、お供えのしもうけですねというて久保山さん、というて昨日話たことでした。
 そういうお参りのしもうけ、これはなら、田中さんの場合、お供えのしもうけ、いわば久保山さんの場合、そういう生き方をです、身につけさせて頂くという事がです金光大神のいう事に背かぬようにという事じゃなかろうかと私は思います。
 そこにまさかの折りには、金光様と言えば、もうそこに生神金光大神が、もうそこに誕生されるという程のおかげを頂かなければ金光様の信心の本当の有難さという事にはなって来ないと思うです。
      ※      ※      ※      ※      ※ 昨日私は、或る読み物を読ませて頂いておりましたら、本当に三十年先は世界の人間がもう破滅するかもしれないという事実をです、例をとっていろんな、とにかく、ジャンボの飛行機がアメリカ-日本間をこうやって往復いたしますとですね、十万人ものの酸素を吸収するそうです。
 そういうような例えばあり方がもう本当に行きよると生物の破滅だという事実をいろいろ沢山書いて今の内に何とか何とかいったような意味の事を書いてあるのを読ませて頂きました。
 それで夕べもその事を一寸気になりましたから、本当に神様にそれこそ、世界中の人間氏子の立行くという事をです、お願いさせて頂いとりましたらね、これは私は、どういう意味かわかりませんけれども、ベタ-シングルと頂いた。
 何かテレビでやってましょうが。だから私にはまあ意味がわからん、どういう事かでも、これは私なりに、私なりに解釈させて頂いたんですけれども、勿論、私なりに解釈出来るよに、下さったんですけどもね、そげなね、世界中の事を心配する事はいらん。問題は自分自身が助かって行くこと。自分自身が神と仲よしになる信心さえしとけば、心配はいらんと神様はおっしゃったんですよ。
 シングルと言えば私はまあ、私一人、ベタ-というのはと私は神と仲ようするという意味に頂いた。意味はどうか知りません。私はそういうふうに感じたんです。
 結局さっき頂きました神と仲ようする信心なんです。だから取り上げが忙しいからというて、神と仲ようしなかったらどげんなりますか。神と仲ようする信心、それこそもう、それこそ、引っつき合うとるようなあり方なんです。
 神と仲ようするという事は、だから私自身がね、皆さんの一人一人がこれから先、どういうふうに時代の大変換になってくるかわかりませんよ。けれども私自身が助かっておる。おかげを頂いておるという事なんです。私自身が助からなければ、人を助ける事は出来ません。
 人が助かる事が出来るという事は、自分が助かるという事なんです。それには神様とベタ-でなければならない。神と仲ようする信心でなからなければならないという事なんです。
 そういう信心が出来ておれは心配はいらんという意味の事を頂いて、いわば安心したような事でございましたけれども、そういう信心を金光大神から私共は教えて頂いておる。それを聞いて行くという事がです、とりもなおさず金光大神の言われる事に背かぬようにという事ではないでしょうか。
 だからこそ、まさかの折りは、金光大神助けてくれといえば、天地金乃神というに及ばぬという程しの、ここに生神が誕生される程しのおかげが受けられるのだと。
 日頃そういう信心しておるから、そうして見ると成程、耕ちゃいじゃないけれども金光様と言う前に、親先生有難うございますと、涙に噎ぶ程の有難さというものがです、成程金光大神は、天地金乃神様からの恩人ならば私共からも恩人である事がわかるように、親先生は例えば、私共の親先生もしなかりせば、なら、今日の内田はなかったという耕ちゃんのそれが金光大神と、親先生が一つになっておるそのところを感じる事が出来ます。
 そういうおかげを表して行ける程しの信心をです、させてもらわねばいけません。 もうどんなに人物が良かってもですね、只、常識的な信心、親先生にお任せをしとりますけん安心しとります。お取次頂いとる、それは私はもう、大変な重荷を感じます。なら、お任せしとるなら、お任せしとるごと、親先生と仲ようする信心をその人がしとれば問題はありません。けども、自分は月の内、何回しか参って来んのいて、お取次頂いとるけん安心しとりますてんなんてん言うならもう、こっちの責任ちゅうものはもう、無理いうごとある。
 だから常日頃、仲ようする信心が出来てから、親先生に任せとりますから安心というならばです、これこそ安心である。
 私も安心ならあんたも安心しとるようなおかげを受けられると言うことになるのです。お互いに一段と信心をですね合楽の場合には、どうでも、そういう、只おかげの世界からお徳を頂いて行く世界、生神金光大神を自分自身の心の中にも、自分の周辺にも、いやここにもです、神が生まれるというようなおかげを頂いて、行く事を合楽では、私自身もそれを行じさせて頂く。だから皆さんの信心の歴史というものがです本当に素晴らしい名場面というものが、アルバムに撮っておける程しのおかげを頂くという事は、そういうおかげを現すという事であり、生神を現すという事になるのですから、そういうおかげを頂いて欲しいと念願して止みません。
どうぞ。